連れ合いはときどき講演会に出かけていって、あることあること喋ってきます。読者との触れ合いによって得るものは多いようです。
紙媒体における文章の場合、出版して自分の手を離れてしまうと、ある意味もう「自分のもの」ではなくなります。それは読者に「共有されるもの」であり、縁あってそれを読んだ人は、受け取ったものを心の中に留め置くか、忘れ去るか、消化したのち別の形で伝えていくことになりますが、そこに存在するのは書き手ではなく言葉が意味するところのもの。筆者の思い入れなど伝わらないと考えておいたほうがむしろ良いのかもしれず、もう二度と「自分のもの」にはなりえない。悲しくも希望に満ちた運命を抱えつつ、われらが本たちは旅だっていくわけです。
で、そうやって自分がかつて書いた文章が、読み手とどの部分で交わり、共有されるのか。読者との接点を持つことで物書きは初めて知ることになります。もちろん受け取る内容は読む人によってそれぞれ違うので、1つの物語は読んだ人の数だけの物語となる。それは言葉の持つ不思議な力のひとつでもありますよね。
連れ合いは、メジャークラスの講演会であればあるほど、参加している人に幅があり、どこから話せばいいのか見極めるのが難しいと言います。なので内容にもよりますが、メンバーをフィックスさせて連続数回にわたって開かれる勉強会などのほうが有効であると考えているようです。
以前は物書きと読者の距離は遠く、出版社経由でお手紙をいただいたり、突然電話がかかってくるといったこともありました。アポなし訪問もたまにあり、面食らいつつ慌てて部屋を片付けたことも。全体的に「唐突」という印象で、個々と話をしていても書き手と読み手の距離を感じさせるものがあったように思います。
けれど最近はブログでリアルタイムの声を更新することができるようになり、出版社経由でなくても直接コンタクトをとれるようになり、コメントを書き込む人々の間で会話が広がったり、MLやSNSでネットワークが作られるなど、それぞれの繋がり方も変わってきました。
それとともに、以前よりも直接お目にかかったときの距離感は確実に縮まっていますし、単に「書いた人」と「読んだ人」という力学的な関係ではなくて、いくつかのテーマによって繋がった人々の輪であり、集合の知を作るための共同の作業という雰囲気が感じられるようになってきています。
20年前の書き手と読み手との関係を考えるとこれは大きな変化だなあと思うわけです。WikipediaやGoogleによる「人間の知」に対する試みもその集大成という感じですが、インターネットが果たした役割は数十年後、振り返ったときにどのように位置づけられるのでしょう。もうそのころは生きていないかもしれないけれど、変化そのものを今こうして目撃できていることに感謝。
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